昭和四十五年六月二十八日 朝の御理解
御理解第二十四節 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
人に誘われて、しょうことなしの信心つけ焼き刃とおっしゃる。つけ焼き刃の信心は取れやすいという事ですから、取れやすい信心、それはつけ焼き刃の信心だという訳ですねえ。そこで人に誘われてのしょうことなしの信心、参ろうという意志はないけれども人に誘われて仕方なしにお参りをするという意味でしょうが、ここで今日私は思うのですけれども、人に誘われてというのでなくて、云うなら金に誘われて御利益を頂かねばならん、御利益に誘われての信心は、まあしょうことなしの信心という気が致しますですねえ。おかげに誘われて参って来ておる。ですから、そのおかげが自分の思うようにならないとポロッと取れましょうが。取れやすいだから私は人に誘われてという事は、そういう意味もあると思うのです。いわゆる取れやすい信心の全てです。途中すら折れてしまうような信心です。そういう信心は、私はまず人に誘われてしょうことなしの信心と同じような意味にとられると思うのです。そこでその身から打ちこんで真の信心をせよと。その身から打ちこんでの信心真の信心とはどういう志信心だろうか、真の信心に打ちこめばこれは止められません。昨日当たりの御理解を頂いておりますとそれがようく分かります。真の信心が分かりだしたら、又打ちこまなければおられないのです。
ここからちょっと調子が変わったようにして教えておられるのは、どういう事だろうかと思うのですけれども、世に勢信心と云うがと云うて勢信心というのを
持ってきておられます。真の信心をせよと、つけ焼き刃、取れやすいという事ではいけんぞと、人に誘われてのしょうことなしの信心では駄目だぞという風に教えておられて、ここから急に調子が変わっておる感じですねえ。
世に勢信心という事を云うが一人で持ち上がらぬ石でも大勢かけ声で一度に力を揃えれば持ち上がる、ばらばらでは持ち上がらぬぞ、家内中勢を揃えた信心をせよと。ですからここは、又もう一節設けてもよい感じがしますねえ。ちょっとつなぎが悪い、そんな感じがするんですねえ。
今、私が申しました事までは、しょうことなしの信心、それを例えばおかげに誘われてとにかく合楽にお参りしてごらんなさい、こげんなおかげが受けられるよというような、まあおかげを受けた人は事実自分がおかげを受けているから人に話すのです。ところが自分がその人が受けておるようなおかげになってこんと参ったばって、おかげが頂かじゃったともうそれで中絶してしまう折れてしまう。ですからせっかくさせて頂くなら、その身から打ちこんで、しかもその打ちこむところが真の信心に打ちこめとこう云うておられます。次にはいわゆる調子を変えて勢信心という事を云うておられます。ここのところも、又別に切り離して頂いても確かにそうでございます。もう道理です。一人で持ち上がらぬ石でも大勢かけ声を揃えて、一・二の三で持てば持てるようなもの、どうでもひとつ勢信心が出来るようなおかげを頂かねばなりません。そういう事になって参りますとね、
やっぱりこれはつながっとるなあと思うのです。というのは、その身から打ちこんでの真の信心と云うておられます。その身から打ちこんでの真の信心になったら人へは、例えば家族で云うならばついてこなければおられんのですよ。真の信心に向かって打ちこんで、例えば家の中の中心の者がそういう信心が出来ておりますとです、ついて来なければおられないのが私は真の信心だと思う。信心とは素晴らしいなあ、有り難いなあと云った雰囲気が家族の中に生まれてくる。
だから、そういう風に頂いて参りますと、次の勢信心というのが生きて参ります。たから真の信心を求め、真の信心を目指した人達が勢を揃えなければ駄目だという事になる。いわゆる鳥合の象じゃ駄目だという事になる。そんなら一家中で信心しておってもですね、ばらばらの信心では駄目だという事になる。真の信心と云う、その真の信心が焦点になっておらなければならない。
今日は筑水連合会の共励会がここでございます。田植えの真っ最中ですしね、ここは田園教会ですから農家の方達はお参りは出来ないでしょうけれども、せっかくここに何年ぶりかに回って来た信徒会の信心共励ですから、例えば人数は少なくてもいいから合楽におかげを頂いてよかった、合楽にお参りさせて頂いてよかった、話も素晴らしかったけれどもその雰囲気だけでもおかげを受けたと云うようなものをね、これはここの信者は勿論ですけれども他の教会から一人でも二人でもお参りがあるとするならです、その人達にでもです、何かおみやげがことずけられるようなもの、いや持って帰って頂けるようなもの、そういうものを頂きたいなと、私は今朝の御祈念でその事を思うてお願いさせて頂きよりましたら、
『栓』という字を頂くのです。木偏に全てと書いてある、いわゆる全ての心という事。そんならその信徒会に集まって来る全ての人という事になるのじゃないでしょうか。まあこれは他所の事はいらん、ここの事でもいいです。そんなら私を中心とするここの信心のグループというものがです、神様が栓が緩んではおらんかと云うておられるような気が致しました。
皆さん、気の抜けた酒というのを飲んだ事がありますか、見かけはひとつも変わりません。それが栓が抜けて気が抜けておったら、さあ飲む程に酔う程にという事もない。いくら飲んだっちゃ人のごたる事になりましょう。これは合楽の信心が今、気が抜けとるなと、こう思うた。だから結局中心の私の信心の気が抜けとるなとと私は悟った。もう今朝のごたるとは初めてでした。私が四時の御祈念を終わってここへ出させて頂いたらだあれもおらん、上野さんがあそこへ御祈念をしとるけれども眠っとる様な感じ、母がここへ来て一生懸命御祈念しとるというだけ。もう普通で云うなら、私が四時の御祈念が終わってここへ下がって来たらもうほとんどここにいっぱいの人が集まっておるといったような感じでしょうが、いつも・・・・・ところが今日に限ってだあれも来とらん、まあそれから若先生が御祈念をするようになってバラバラと出てみえられましたけれどもです、例えば今日のそんなら共励会をさしてもらう日々中心のここの教会の信者である
幹部の連中は今日はだあれも参って来とらん、思いがけない人達が今日は参っておられるような感じ、まあ云うなら原さんご一家位のもん、これはいよいよ栓が抜けとるなあと、私は思いました。
今日はせっかく、各教会から一人ずつでも二人ずつでもここに集まられる。一日を費やして参られるのですから、それこそ一杯のお酒を頂いてです、それこそポーッとしたまではいかんでも、何とお香りの素晴らしい事、味わいの素晴らしい事、これを重ねて飲んだらどんな素晴らしい気分が頂けるであろうかと思えれる位なものはね、皆さんに持って帰ってもらいたいという願いを持ってです、おるのにもかかわらず、今日、その当時に当たっておるのに、今日は云うならその当番教会の中心になる人達が朝の御祈念にもお参りしていない、なる程、今日はもう早う出て来んならんから、もういろんな準備があるから、だからそのままおらなならんから、と云うて今からぼちぼち来るに違いありませんよ。けれども、
もうそこにです、栓が緩んでおるものを感じます。それはそれ、これはこれ、朝の御祈念は朝の御祈念と同時に又それから連想して思う訳です。合楽自体のいわば栓が抜けていると云うだけではなくて、筑水連合会その信徒会そのものが全て今日の御理解に丁度当てはまるような、人に誘われてしょうことなしの信心で集まって来る事ではなかろうかと私は思いました。今日の御理解はここでしたから、二十四節でしたから。
ははあ、今日集まって来るとはとにかく合楽からも来てもらうから、まあ誰でもよか年寄りでも、うちで仕事にならんごたる人達でんよかけん人数揃えに行って下さい、と各教会で云うようなですね、方達が集まって来るだろうと思います。
なる程これではね、せっかく筑水連合会、信徒会そのものの働きすらが出来ない。いわゆる真の信心を目指しとらん、云うなら今日、合楽でそれがあるから忙しかばってんか誰か爺さんか婆さんか家におったっちゃ役に立たんとが行って下さい、というごたるが来たっちゃです、勢を揃えた信心にもならないし、いわば、しょうことなしの信心ではおかげも頂かれまいという事。せっかく筑水の各教会の精鋭が集まってそこに何をか願う教団的な事もよかろう、世界の真の平和もよかろう、そういう願いそういう信心の集いというものが出来るようにならなければ、いくら集うたっちゃ何にもなよりゃせんじゃないか、とにかく馬鹿らしか時間を費やして来るがたない、信徒会に脱してしまっておるのではなかろうかと私は今日は思うた。今日は私自身の事から、ここの教会の事から又、今日ここである信徒会の事を思うてそう思うたんです。
各教会のいわば選手のような方達ばっかりが集まってですよ、その百なら百の人が集まって、今日のここの勢信心ですか私共に願うてござる、金光大神を通して私共に願うてござる、真の信心、その真の信心のまあ一部としてです、例えば昨日の御理解のように大きな信心といった意味に於いてです、真実、教団のいよいよいよ発展を願い、世の難儀な氏子の人達が取次ぎ助けられる事を願い、世界真の平和にまでつながっていくような私は祈りをです、いわゆる信徒会全体が打って一丸となって願うような信心の方向といったようなものが、方向ずけられなければ、これは筑水連合会の信徒会も駄目だぞという気が致します。けれども又
元に戻って参ってです、云うとです、例えば今朝の御祈念のこの様子を見てです、
おやおや今日という今日はどうした事だろうかと思うごとありますけれどもです、
これは、私の信心自体が栓が抜けて気が抜けよるなあ、だからこれが信者にもこのように響いておるなあと、まあ究極は思わせて頂くのでございますけれどもです、そこにそのように気付かせて頂いた。例えば栓という字を頂いて、全ての心という事でしょうか。ここにひきしめてです、今日のここの信徒会を境に私を中心にした信心のここの云うならばグループの方達だけでも、そこに何とはなしに
生き生きとした信心が出来るならばです、そこからだけでも、今日みえて頂く方達に、例えば雰囲気の中からだけでも何かを持って帰ってもらえる、又、持って帰ってもらわなければ相済まん、そういう意味で自分の信心をもういっぺんです
人に誘われてしょうことなしの信心ではなかろうかと・・・それがそんなら、おかげに誘われてからのしょうことなしの信心ではなかろうかと、神様が心配して
ござる、そういう信心では、つけ焼き刃の信心ぞと、つけ焼き刃ではとれやすいそのとれやすいような信心ではないかと、もういっぺん自問自答してみてです、
私は真の信心を目指しておると云うのならば、もっと違った生き生きとした勢いが出てきそうなものだと、その真の信心という事になると又、大変範囲が広い事になりますけれども、その真の信心を分からんでも真の信心を信心と、真の信心を追求し目指してからの信心、だから今日もお参りさせて頂いておるがと真の信心を稽古させて頂く為の信心ぞという事になって参りましたら、真の信心は、云うなら人がついて来なければおられないものなんです。
今日 二十四節を頂いて、人に誘われてという事は今日私は皆さんにおかげ誘われての信心といったようなものは、おかげを受けなかったらもうそこでつけ焼き刃のようにとれてしまう事になりますから本当にひとつ信心を目指さなければならない。
「云う事と行う事、思う事、神の心に適いなば真の徳のあらわるるなり」
真の徳と云うなら真の信心からしか生まれてきません。そんなら今あんたが思うておる事、今あんたが行うておる事、今あんたが云うておる事は果たして真の信心かというようにです、私はそういうところからでも、まず正していっておかげを頂かしてもらい、それが勢信心というところにまで発展していきつながっていく程しのです、おかげを頂きたいもんだと思うですね。どうぞ。